関 治之

CATALYST一般社団法人コード・フォー・ジャパン代表理事・合同会社Georepublic Japan CEO

位置情報系シビックハッカー。大手ソフトハウスで金融系システムの構築などに従事後、様々なインターネットメディア立ち上げのプロジェクトマネジメントを行った後、2006年よりシリウステクノロジー社にて、Geo Developer として同社内の研究所であるシリウスラボの所長を担当。2009 年下期にIPAの未踏人材発掘育成プロジェクトに「オープンソース技術を利用したモビリティマネジメント基盤の開発」にて採択され、その後自身の会社である Georepublic Japan社を設立、以後現職。地域課題をテクノロジーで解決するために活動している。 テクノロジーを利用したオープンガバメントを支援する、Code for Japan の代表も務めている。 OpenStreetMap Foundation Japan という地図コミュニティにも所属しており、2011年3月11日に発生した東日本大震災の後、震災復興を支援するために立ち上げられた復興支援プラットフォームサイト、sinsai.infoの総責任者として運営に携わった。sinsai.infoは、平成23年度の情報化月間推進会議議長表彰を受賞。

一般社団法人コード・フォー・ジャパン代表理事・合同会社Georepublic Japan CEO:https://www.code4japan.org/

インタビュー 体験&おすすめホスト

今回のカタリストは、一般社団法人「Code for Japan」代表理事としてご活躍されている関治之さんです。

関さんにはCode for Japan誕生秘話やこれまでの出会いと変化の物語をお伺いいたします。

また関さん自身の物語を通して「一歩を踏み出す」ことの大切さについて教えていただきます。


 

―本日はよろしくお願いいたします。まず、関さんが代表を務めていらっしゃる「Code for Japan」はどのような取り組みをなさっているのでしょうか。

 

「Code for Japan」という団体は、これまで依存しがちだった公共サービスを、例えば「わたしは税金を払っているから役所が提供してくれて当たり前」というように捉えるのではなく、自分たちの力で、そして「技術」をうまく使って課題解決を行っていこうという意志のもと活動を行っています。

現在いろんな技術が簡単に使えるようになってきているのでそれらを活用し、その土地ごとに異なる課題を解決し、地域を盛り上げていくような新しい共同体を作っていきたいと考えています。

行政の方も課題解決に取り組むプレイヤーとして一緒に活動し、今まで繋がっていなかった行政と様々な人を繋げることで、1つのコミュニティを築き上げるような活動です。

一言でまとめると「ともに考え、ともにつくる」と言っていて、みんなが創る側に回るということ。それは別に難しいITシステムを作ることではなくて、共同で何かをDIYで作っていく、そういったようなコミュニティづくりを目指して活動しています。

 

―その活動の内容や方向性というのは様々なものがあるのでしょうか?

 

そうですね。大きく分けると3つのフィールドがあります。

1つ目はコミュニティをしっかり作っていくということ。

私は地域の課題を解決するためには、各地域にコミュニティが必要だと考えています。ヒエラルキー型のCode for Japanがいて、その下に県があって市があって…ということではなくて、各地に「Code for ○○」というものを自分たちの好きな単位で作ってもらって、主体的に動いてもらうというのが基本的な考え方です。なので、特に我々から具体的な指示として「これをやりましょう」というようなことはありません。私たちはネットワークとして、一つの地域だけの活動では力が弱かったりといったものをうまく繋げることが役目なので、各団体には、その繋がりを利用して学びあったり、成功事例を共有しあったり、或いは作ったものを公開して、他の地域でも使って改善していくことができる、そんな緩やかなネットワークづくりというものを行っています。

2つ目は、行政向けに行っている活動です。

これは行政側がコミュニティとうまく付き合えるようなテクノロジー活用を支援しています。せっかくコミュニティが整った地域だとしても、行政側が従来の考え方だと、どうしてもうまく繋がりというものができません。そこで我々は行政側に対して「ITについての知識・理解を向上させる」という面での手助けをしています。特にデータを活用して行政課題を解決していくということに関しては重点的に活動していますね。データを基に話を進めることは市民とより客観的に話ができ、良いコミュニティづくりの大きな一歩となると考えています。あまり政治的なものではなくて、行政側のワークショップのお手伝いをしたり、行政内部のIT活用支援などを行ったりと、割とフラットな場づくりというような形で行っています。

3つ目は、地域というよりは特定課題向けとして、プロジェクト型の活動を行っています。

例えば「Code for Cat」。これは猫の殺処分をなくしたい思いで活動している人たちによる団体です。また「Code for Youth」というのは、このシビックな活動に対して主体的に参加したい、という学生による活動です。

後はNPO団体に対して、よりテクノロジーが分かる人をマッチングしたり、或いは派遣をしたりしています。これを僕たちは「ソーシャル・テクノロジー・オフィサー」と呼んでるんですけど、いわゆる新しい職業を作ろうともしています。

 

―2つ目のフィールドの、「データ」を活用した課題解決をされているということについてですが、たくさんのデータがある中で実際にこのデータを使ってこんなことがうまくいった、という事例はありますか?

 

例えば、シティプロモーションという活動は、行政はどこでもやっていると思うのですが、その際にアンケートを取る機会があると思います。

今まではアンケートに関しては、どちらかというと政策に対してその政策を進めるありきのものばかりで、そこに本質的な答えを見出す項目はない、と感じることが多かったんです。そこで私たちは、アンケートを作るところから一緒に協力して、また結果を市民とも共有しながら、客観的な情報をもとに市民とワークショップをしています。

例えば「待機児童」という課題を例に挙げると、待機児童が多いと感じていた地域も、データを見ることで他の地域にも目を向けられて、結果入れる施設があることが分かったり、或いは少子化のデータと重ね合わせることで、今本当に施設を作っても良いのか、そういったこともきちんと話し合うようにしています。これは実はすごく大切なことなんです。

市民は今困っているから、必要だから言うんですよね。

「保育所を増やしてくれ」ということを要望したとしても、行政側の人も実情に詳しいので、理論的に保育所を増やせない理由を淡々と述べてしまう。そうすると感情的になっている市民との間にずれが生じてきてしまいます。でも、ちゃんとデータを揃えて、ディスカッションすることでお互いに整理ができるんです。新たな結論がでることもありますしね。

よくホワイトボードで話し合いをすると可視化されるので、議論が一方通行にならないと言われているのですが、私はこの構造と似たものだと思っています。「同じ目線」を大切にしたワークショップを各地でやっていこうということです。

 

―なるほど。ところで、関さんが「Code for Japan」という団体を設立されたきっかけは東日本大震災だとお聞きしました。東京という遠隔地にいながら、関さんが取り組まれたことは何だったのかを教えください。

 

東日本大震災で痛感したのは、やはり「データ」の重要性です。

特に災害時や緊急事態の時は、避難情報、給水所の情報を被災者の方にはいち早く知らせなければなりません。そういった情報って、たいていは行政側がデータを持っているんですね。

でも、市のホームページってみんなが殺到してアクセスエラーになってしまって、結局見ることができなかったら、本末転倒ですよね。そこで迅速にサポートできるような、しっかりとしたコミュニティサイトでフォローしていきたいなと思うようになりました。全部を想定しておくのは難しいんですがサイトが落ちたからと言って行政に文句言っても仕方がないですよね。それはそれとして受け入れて一緒に考えていけるのって、やはりその土地の人だと思うんですよね。自分たちの街のことですから。

 

―Code for Japanについてはよく理解できました。ここからは関さんご自身の物語を聞いていきたいのですが、そもそもなぜCode for Japanという団体を作ろうと思ったのでしょうか。

 

私自身もともとエンジニアで、システム開発を仕事にしていました。その一方で、会社とは別のコミュニティに所属していました。

「オープンソースコミュニティ」というもので、これは誰かが作ったプログラムを共有・公開すると、別の誰かがそれを自由に使えたり、更に使っている人が機能を追加したり、修正をする。改良されたものをオープンにすることで、みんなで作ったものをより良くしていこうというコミュニティなんですけど、皆さんが使われているiPhoneも、実は「オープンソース」の技術が使われています。私が活動していたのも、世界中と繋がりのあるコミュニティでした。

そんなとき、東日本大震災が起きました。仕事でそれなりに活躍し所属しているコミュニティには貢献できていると感じていた一方で、災害が起こったような実社会で一体自分は何が貢献できるのだろうということに葛藤を感じました。いざ大変なことが起きたときに、果たして自分のスキルがどう社会に役に立つのか、ということ葛藤です。

まずはできることからやってみよう。そこで始めたのが「sinsai.info」です。

震災の情報を集めて、地図上にマッピングするシステムを作りました。仲間と一緒に作って始めたんです。そしたら、結構見られるようになった。見る人が増えるにつれて、機能が足りない、パフォーマンスが悪い、などの意見もいただけるようになって、様々な課題も見つかりました。色々とやらなくちゃいけないことに対して、当時技術者が足りなかったんですね。そこでSNSで支援を呼びかけました。するととても多くの人が助けてくれたんです。その中にはエンジニア界隈の中では有名な方もいらっしゃいました。雑誌で見たことがある人だったり、僕が尊敬している人だったり。中学生のスーパーエンジニアが来たりもしました。集まってきくれたエンジニアは個別の動きを取るので、中央集権的なものではなく、指示を出さなくても勝手に出来上がっていくような環境を整え、最終的に良いシステムが出来上がっていく。そういったことを実感できる取り組みでした。

この経験から「僕は技術の世界だけでやっていたことでも、実社会に貢献できるようになれるんだ」ということに気付きました。それを、もう少し突き詰めたいと考えていたところ、「Code for America」という団体が海外にあることを知って、この姿こそ、僕が目指していたものに近いと思ってすぐに会いに行きました。

「Code for Japan」を作りたい、といったら快諾してくださって、始めたという経緯です。

 

 

―そんな物語があったのですね。ちなみに関さんがエンジニアリングを始められたのは、いつからでしょうか?

 

実際に僕がプログラミングを始めたのは13歳のときなんです。

 

―そうなんですね!関さんが13歳というと1988年。

まだパソコンが一般家庭にあるような時代ではないですよね。家にあるコンピューターってファミリーコンピューターぐらいの世代だと思うのですが。

 

実は僕もファミコンが欲しい一人だったんです(笑)。ファミコンをやりたい!と父に言ったら、当時「MSX」という家庭用パソコンがあって、父がいきなりそれを買ってきたのがきっかけです。僕らの時代というのはMSXでプログラミングを始めた人というのが結構多いと聞きますよ。

 

―お父様はファミコンと間違われたわけではないですよね(笑)。

 

間違えたわけではないです。いくら父でもファミコンと黒いキーボードが付いた筐体とを、間違えるわけがないと思うんです(笑)。

「これ、ファミコンじゃないじゃん!」と言ったら、「ファミコンは確かに面白い。けれどこの黒いモノは、どうやら自分でゲームが作れるらしいぞ」というんですよ(笑)。父親は別にエンジニアでもなんでもないのに。多分おもちゃ屋さんかなんかにそそのかされたのでしょうね(笑)。

 

MSX(写真はWikipedia より CC-BY-SA: Xxmasaxx~commonswiki

 

―素晴らしいお父さんですね。当時は高かったんではないでしょうか。

 

確かに、ファミコンよりも高かったですね。中学生の誕生日プレゼントだったと思うんですけど。その機械と一緒に「MSXマガジン」というのを買ってもらいました。インターネットがなかったのでこの雑誌を見ながら、見よう見まねでゲームを作りました。

もちろん最初からゲームは作れないので、短い計算ができたり、円がかけたり、色が塗れたり、音がでたり、動いたり…そういうことが少しずつできるようになっていって。そしてその雑誌の巻末に結構長いプログラミングが載っているんですけど、それをひたすら一か月くらい打ち込んでいたら、ある日それがゲームになったんです。

「この先にマリオがあるのか」というように、当時は子どもながらに好奇心が搔き立てられましたね。

 

―作ったゲームはご自身で遊ばれていたのですか。

 

友人にやらせていました。友人も結構楽しんでやってくれましたね。「簡単すぎ」といわれると、スピードをあげたり、障害物を追加したり、「これならどうだ!」って感じで遊んでいましたね(笑)。

でも実は高校生の時はプログラミングから離れていました。音楽が好きだったのでバンドをやっていたんです。

 

―どのようなバンドが好きだったんですか?

 

当時はパンクバンドが好きでイギリスのバンドのコピーなんかをしていました。

その後大学の教養の授業でプログラミングと再会することになったんですが、中学生の時に自分でタイピングゲームを作って遊んでいたので、やたら速かったんです(笑)。

 

―専攻は理系ですか?

 

大学は教育学部の初等教育の数学でした。中退するんですけどね。

音楽活動にのめり込みすぎました(笑)。

 

―それほど音楽がお好きだったんですね。当時は音楽で食べていこうとか考えられたのですか?

 

正直そこまで覚悟を決めていたわけではなかったです。ですがプログラミングはソフト会社でアルバイトをずっとしていました。授業で触れてからですね。

 

―せっかく入った国立大学をやめた、というのは、関さんにとって、大きな挫折だったのでしょうか。

 

挫折とは思っていないですね。あの時やっぱり音楽に打ち込めたのは良かったなと思います。

けれど音楽では周りがすごすぎて、おれはあんなに賭けられないな、って思ってしまったんです。それからバンド仲間ともうまくいかなかったりすることもありましたし、エンジニアとしての仕事が忙しくなりつつあったというのもあって、フェードアウトしてしまったという感じです。

 

―オープンソースコミュニティに入った理由はなんでしょうか。

 

単純にコミュニティにいて楽しかったからです。

僕らがちょうどエンジニアとして育っていた世代って、オープンソースソフトウェアというのが世界的に認められ始めた時代だったんですよ。以前はソフトウェアは買うもので、買ったものをインストールして使うのが当たり前だったのですが、無料で使えるオープンソースの品質が徐々に良くなってきて、今までいろんなデータベースなどにお金をかけていたことが、私自身オープンソースを利用するように切り替わっていったことで、恩恵を受けるようになりました。使い続けていると機能不足に気付くようになっていくのですが、機能追加を頼むベンダーさんもいないし予算もないので、自分で改良するしか方法がない。でも改良したものが、勉強会などに参加したときにコミュニティの方から、「その使い方面白いですね」と言ってくれて、説明するとすごく喜んでもらえて、またフィードバックなんかも貰えたりして、すごく楽しかったんです。

自分が発表したものが会社だけではなくいろんな人にみてもらえる、フィードバックも貰えて、さらに新しい知識が入ってくるっていうのがすごく楽しくて、いつのまにかオープンソースコミュニティに入っていました。

 

―ただ本業としての仕事はまた別にされていたと思うのですが、どのくらいの割合でやってらっしゃるのですか?

 

その時々で所属していた会社や仕事の内容にもよりますが、オープンなコミュニティに時間を多く使うようになったのはスタートアップに参加し研究的な立場に回った時です。コミュニティと一緒に、何かを作ることが多かった研究だったのでそこから始まりました。

 

―それは何歳の頃ですか?

 

30歳前くらいですかね。

 

―お仕事を色々変えられていますが、関さんが一貫して考えていたことはありますか?

 

実は就職活動を1回もしたことが無くて、基本的にはその時に伸びそうなところのアーリーステージをやろう、と思ってやっていました。

最初は言われたことをただやっているだけだったんですが、ある時「スポーツナビゲーション」というスポーツポータルサイトの立ち上げにかかわる機会があったんです。この時インターネットを使ったスポーツメディアを大きくやるのは恐らく初だったんです。この時に最初にやるという経験をしたのですが、やるといろんな情報が入ってくるのですごく面白かったです。そのあと、音楽に関する仕事にも就いたのですが、そこも「着メロ業界」という伸びる領域にいました。

伸びる業界っていれば何とかなるんですよ(笑)。それがまだ小さいものでも、あとあと伸びるのであったらできるだけ前にいたほうがいいと感じて、先頭にいるようにしていました。その後に入った会社でもGPSを使った位置情報広告配信みたいなものだったのですが、今では当たり前の機能になっていますよね。先取りするということを大切にしていました。

Code for Japanをやっているのも、この流れっていうのは今後絶対上がってくると思ってやっているので、今は小さなことでも信じてやっているという感じです。

 

―そこには軸みたいなものが見えているってことですね。関さんの活動ではボランティア要素が結構見られるのですが、Code for Japanを設立されるまで、ボランティア活動、市民活動という経験はこれまでにあったのでしょうか。

 

いや、東日本大震災以前はなかったです。震災の後は被災地に行ったりしているのですが、それまでは全然興味はありませんでした。

東京生まれ東京育ちでしたし、こういう活動を行っていると、「地方のために貢献したい」というモチベーションがある方が羨ましいと感じてしまうくらいです。

そこまで課題感、というものは持っていなかったですね。でも子供が生まれてからは変わりました。コミュニティって大事だなっていう実感がわいてきました。

 

 

―大学時代に教育系の学部に入られていたということですが、教育や人の成長に対しての関心があったのでしょうか。

 

教えるのは好きでした。ただ僕は高校の頃も音楽をやっていたのですが、のめり込みすぎたせいで単位が足りなかったんですよ。卒業見込みっていうのが私立受験の時には間に合わなくて、国立しか受けられなかったんです(笑)。

なので大学選びは割と絞られていました。

 

―大学受験は全科目必要ですよね。大丈夫だったんですか。

 

だめです(笑)。でも僕は数学だけは得意だったので、数学一本で大学に入りました、全然勉強してなかったですよ。ほんとに。

 

―文系の私にとっては言ってみたい言葉です(笑)。 小学生の時から算数は好きだったのですか?

 

もともと算数は好きでした。あまり暗記は得意ではなかったですね。一生懸命勉強するのが苦手なので。数学ってルールを覚えて、仕組みを覚えれば解けるじゃないですか。暗記よりも分量が少なくて良い。社会なんかは苦手でした(笑)。

でもそこが今エンジニアをしているという部分にもつながっているのかもしれません。

 

―好きなものが今に結びついているんですね。

最後に関さんの未来に対する思いについてもお伺いさせてください。Code for Japanとしてだけではなく、関さん自身がこれからどんなことをしていきたいのか教えてください。

 

やっぱりCode for Japanという活動はこれからも続けていくんだろうな、と思っています。

地域でコミュニティが出来て、そこがもっともっと社会的価値を高めていけるような手助けをしていきたいんです。市民が「自分たちでやればいい」という気持ちになってくれて、そして行政側はそれを支援するという形、それは企業も含めですけど、あまり行政や企業に頼るのではなくて、市民感覚というものがうまく技術を使って高められるような社会を作っていきたいと思っています。そこに至るまでは時間はかかると思うのですが。

今はAIなどがありますが、ああいったものこそ生活をよくするためのものなので、あまり怖がらずにチャレンジしてみる土壌づくりというものが出来たらな、と考えています。

 

 

―そういった取り組みも地域をなんとかしたいという他の方とは少し違う匂いがするというか、別の視点で関さんの場合は取り組まれていると思うのですが、そのあたりどのようにお考えですか。

 

僕の考えとしては一貫していて、特定の社会課題を解決したいというよりも、仕組みを作りたいと思っています。それはオープンソースコミュニティの考え方でもあるんですが、コミュニティ、ノウハウ、テクノロジーなどにオープンな繋がりを持たせる、というのが社会を変えると思っているんです。

技術の世界では既に変わりつつあるんですが、現在インターネットによってテクノロジーというものがどんどん実社会に溶け込んできています。テクノロジーが人間の能力を拡張しているので、それがこれからも進んでいく。「人間は将来機械になる」という先生もいらっしゃるほどなんです。そういった社会の中では、当然これまでのテクノロジー社会を変えたオープンな技術というものが実社会で適用されていくと思います。私はそれを加速させていきたい。それが僕のモチベーションです。

なので、特定の課題を解決したり、地域を良くしていきたいというモチベーションを持った人たちが私にはうらやましくて、そういう人たちをもっと輝かせたい。みんながテクノロジーを活用できるように、私はみんなを下支えするような仕組みを作ることに貢献できればと思っています。

 

―関さんは、どういったところにまだオープンなところが足りないなと感じますか?

 

日本にいると特に感じるのですが、組織というものに縛られすぎていると感じますね。副業について未だに議論しているし、縦割り型で組織のために働く、という感覚もおかしい。そこは壊していきたいですね。

 

―何よりオープンにすべきは気持ちということですね。世の中には、Code for Japanの活動自体を知らなかったり、そこに飛び込む勇気が出ない人たちもたくさんいると思うのですが、「一歩前に踏み出す勇気」というものに関してはどのようにお考えでしょうか。

 

やっぱりそこがいまCode for Japanが一番課題にしているところなのかなって思います。

マインドを変えること。やっていても難しいなと感じることは多いですね。活動を説明しても、大半の人は「素晴らしいですね」と言っていただける。それってどこか他人行儀で、「応援します」って言われちゃうんですけど、あなたも関われるんですよって思うんです。誰でも関わる権利があるし、誰でも参加できる。

特に「Code for Japan」はどうしてもエンジニアしか入れないと思われがちなんですが、海外のCode forグループ はエンジニア以外にも活躍されている人たちはたくさんいます。例えばITを知らないということを逆手に取って、分からない人向けに翻訳という形で、もっと意義や目的を嚙み砕いて説明してくれるという貢献があると思うんですが、なかなか最初の一歩が踏み出していただけないんですよね。

何もせずに誰かに文句を言うだけというのが一番悲しい事です。一歩を踏み出してください、ということをどうしたらもっと伝えていけるのかっていうのは悩んでいて、まだ答えは出ていないです。

行政にいくら文句をいっても変わらないんですよ。だって私たちが選んでいるんですから。たとえばITが分かるような人とか、町を住民と一緒に変えていきたいと思っている議員さんをしっかり選んで、そしてわたしたちも選んで終わりではなく、継続的にコミュニケーションをしていったら変わるはずなんですよね。変えられない仕組みなんてないですから。盛り上がっている地域っていうのは、コミュニケーションがきちんと組み立てられているので。実は変わらないのは住民自身だと思うんです。

 

―関さんご自身が一歩踏み出すのに怖いと思ったことはありますか。

 

一番怖かったのは会社を作って初めて従業員を雇う時でした。Code for Japanの前に始めた会社の時なんですけれど。

 

―具体的にはどんなシーンなのでしょうか。

 

2009年に、最初は仲間と3人で会社を始めました。創業者だけでやる分にはいいんですよ。自分たちで始めた会社ですし、失敗しても納得できる。

ですが雇うとなると、自分が失敗したときに人の人生を巻き込むという責任を感じたのが、一番怖かった瞬間かもしれませんね。

 

―怖い、と感じながらも採用しよう、前に進もうと思われた理由はなんでしょうか。

 

やっぱり一人でできることって限界があるからです。よく言われる言葉に「早く行きたければひとりで行け、遠くに行きたければみんなで行け」というアフリカの言葉があると思いますが、まさにそれだなと思います。社会を変えるって言いすぎですけど、なにかオープンな仕組みで既存のシステムを変えたいというときには多くの人を巻き込んでいかなくてはいけないので、どうしても活動を広げるには人が必要となる。だから怖いけどやるしかないなって感じです。

 

―最後にこれから何かに挑戦してみようという方へメッセージがあればお願いします。

 

本当に小さなことから始めたら良いと思います。いきなり大きいことをしようとしても怖いですから。

僕も会社は副業から始めたんですよ。しかも当時勤めていた会社には「副業禁止規定」というものが設けられていました(笑)。

でも社長にやりたいってことを伝えたら、「やっていいよ」という風に言ってくださって。意外に言ってみたらハードルって低いんだなっていうのを感じることが出来ました。自分の経験から思うんですが、自分が思っている以上にリスクって少ないんです。そしてそのリスクを今の自分が取れる範囲から少しだけ背伸びをする、それだけでいいと思うんです。

 

―小さい事から少しずつ前に進むことが大切なんですね。今日は素敵なお話をありがとうございました。

 2018年9月22日・23日には新潟でCode for Japanサミットが行われるそうです。

 無料で参加できる内容も多いそうですので、ご興味持った方はぜひ一歩踏み出してみてはいかがでしょうか?

 Code for Japan Summit

 

 

文:早川遥菜