今回のカタリストは、雑誌『装苑』やアディダス、桑田佳祐さんの最新アルバムのアートディレクションなど多方面に渡って活躍されている株式会社れもんらいふ代表の千原徹也さんです。創作するもの、オフィス、そして千原さん自身と、全てが一度見ると忘れられない光を放つ、そんな千原さんのルーツに迫る物語です。
―いきなりで失礼ですが、ぜひ単刀直入にお伺いさせてください。いつから今のような象徴的な金髪や大きな黒縁メガネという千原さんのお姿になったのでしょうか?
僕は小学校の頃から好きなものって変わってないんです。子どもの頃から映画を観ては、漫画を描いて家族や友人に見てもらったりしていました。その頃と中身は全然変わってないんですが、このキャラクターにしたのは31歳の時でしたね。
―31歳の時になにか特別なきっかけがあったんでしょうか?
35歳でれもんらいふを立ち上げたんですが、それ以前は様々なデザイン事務所に勤めていました。当時も事務所に所属しながら、そこでの大きな仕事を1人で任せてもらえるようになってきた、そんな時期だったんですが、ある大手アパレルメーカーさんに対して年間の広告プランを提案する仕事を任されたんです。その提案の前日に美容室を予約していたんです。
―そのタイミングで突然金髪にされたのでしょうか?
元々は大事なプレゼン前だから身綺麗にしていこうと考え、目黒にあるミツコという美容室に行ったんです。そこで、明日大きなプレゼンがあって少しナーバスになっているんだというような話をしたんです。そしたら、金髪にしてみたらと提案されたんです。相手にとって訳がわからない姿になっているほうが、提案に対して突っ込まれにくいよというアドバイスだったんですよ。
―その提案に乗って、ということでしょうか?
そうです。その場のノリでしたね。
―前日ナーバスになっていたことはすごく共感できたんですが、突然真逆の方向に行動するって面白いですね。いざ金髪になってみて何か変わりましたか?
突然勇気が湧いてきましたね。スーパーサイヤ人になったような。着ぐるみ姿で踊っても恥ずかしくないような、そんな感覚でした。
―とても面白いですね。役を演じているような感覚になったのですね。それまでにも、突発的に思い切った行動にでることはあったんでしょうか?
いえ、逆に思い切ってできないタイプで、ここぞという時に引っ込んでしまう性格がそれまではコンプレックスだったんです。
―では、まさにこの時が一歩踏み出した瞬間ですね。プレゼンはいかがでしたか?
役員の方々が10名ほどいる緊張感のある場だったんですが、何も緊張しなかったですね。提案に対して何も突っ込みもなく、良いねとなって。能力以上の見方をしてもらえたなと感じました。
―美容師さんの提案に乗ってみて良かったですね。
そうなんです。「れもんらいふ」という名前も僕が名付けたのではなく、遠山さん(株式会社スマイルズ代表 遠山正道氏)に付けて頂いたんです。僕は自分からやりたいということがそんなになくて。映画監督ぐらいですね、やりたいこと。それ以外はなかったです。
―全てが個性的な千原さんから聞くと、とても意外なお言葉です。
映画はあるんですよ。貯めているストーリーやタイトルが。けれど、元々会社を作りたいとか思ったことがなかったので、何も用意していなかったんですね。アートディレクターって依頼があってやる仕事なので、どこか自分自身から新しいものを発信するのが恥ずかしいという気持ちもあったと思います。
―遠山さんに依頼されたのは何か理由があったのでしょうか?
スマイルズって名前が可愛くて良いなと思っていたこともありますし、尊敬できる人に名付け親になってもらうと縁起がいい感じがして、お願いしました。『れもんらいふ』って名前は自分というキャラクターに合っていると思います。金髪もそうですね。やってみて、自分というキャラクターに合っているなと思いました。
―個性の塊のような千原さんにして、自分のキャラクターがわからなかったのは意外です。
僕は自分のデザインとは何か、個性って何かって全然分からなかったです。金髪も、メガネも、その一歩一歩で自分のデザインを確立していっている感覚です。
―それでも映画監督になりたいという夢は明確だったのはなぜなのでしょうか?
4歳の時に映画「スターウォーズ/帝国の逆襲」を見たんですね。京都にあった京極シネマという場所で見たことを覚えています。大友克洋監督の「AKIRA」も初日に並んで劇場で見ました。
―確かに映画って昔は並ぶことが当たり前でしたよね。SFが特に好きだったんですか?
時代的にSF作品が多かったこともありますが、他にも色んな映画を観ていました。子ども向けの映画ではなく、小学生の時から大人が観る映画を見ていました。
―友達の影響があったのでしょうか?
周りの友達で映画の話しができる人は全くいなかったです。というか、僕は友達がいなかったんです。高校に入ってようやく映画について話せる友達ができたかなというぐらいで。
―では、ご家族で映画好きな方がいらっしゃったんですか?
親は離婚していたんですが、たまに会う父が連れて行ってくれるのは映画館でした。大人向けの映画を観ていたのは父の好みの映画ということもあったかもしれません。母もよく連れて行ってくれましたね。大人になって気付いたんですが、僕の家は結構お金で大変だったんです。けれど、母子家庭で貧乏しているって僕に思わせないように無理してくれていたんです。
―映画というのは個々の作品以上に千原さんにとって大事な存在だったのかもしれませんね。
そうですね。遊び全てが映画に繋がっていました。漫画を描くことも好きだったんですが、観てきた映画をそのまま漫画に落とし込んでいくということもよくやっていました。その分、映画の見方も違ったかもしれません。映像のカット割りなども後で描けるように細かく観察していましたから。
―その漫画はご家族に見せていたんですか?
よく読んでくれたのは、おばあちゃんでした。もちろん映画を観ていないので、映画と似ているかどうかは分からなかったと思うんですが、とにかく僕の漫画を読んでは、すごく褒めてくれました。おばあちゃんが、僕の感性を褒めて育ててくれたと思います。
―映画監督になろうという夢はその後どうなっていったんでしょうか?
高校になると、さすがに家が苦しい状態であることは僕にも分かっていました。なので、夢よりもとにかくどこかに就職して、親を楽にさせたいという気持ちでした。
―高校卒業後にすぐ働こうとされたんですね?
そうです。家の近くの印刷会社に履歴書を出そうとしたんですが、それを母に言ったところ、ものすごく怒られました。恐らく人生で一番怒られた経験だと思います。
―なぜ怒られたんですか?
今まで何不自由ない暮らしをさせてきたつもりだったのにという怒りだったと思います。母に、『あと4年間くらい頑張るから、大学に行って自分のやりたい仕事についてほしい』と言われました。それと同時に『あんたは絵が上手いのだから、そういう仕事したら』っていうのも言われて。それが仕事になるなんていうことは想像もしたことがなかったんですが、あの時の母の言葉が残っていて、現在の仕事に繋がって行ったのかなと思います。
―お母様から強い後押しを受けて、大学に進学されたんですね。進学後は、どのようなことをされていたんですか?
大学時代も、映画をよく観ていました。卒業が近づくなかで、自分は映画の中でもどんなことがやりたいんだろうかと考えていたときに、映画のエンド・クレジットにソール・バス(アメリカのグラフィックデザイナー)の名前を見つけたんです。そこで憧れが生まれました。
―そこからデザイナーを志されていったんですか?
そうです。けれど、ソール・バスのような仕事にはリアリティがなかった。以前はマクドナルドのクーポンの裏面のみをデザインする大阪の会社にいました。当時はそれで良いと思っていました。
―ただ、そこに留まらず上京されたきっかけは何だったんでしょうか?
27歳の時に佐藤可士和さんが手掛けられたSMAPの広告に出会ったんです。それを見たときに、ここまではやりたいと思ったんです。まだ挑戦してもいいかなと。
―なぜそう思えたんですか?
色々なデザイン会社で働いた経験の中で、自分は美大を出ていないから道がないと思っていたんです。エントリーすらできない世界。そんな風に思っていました。ただ、佐藤可士和さんの作品を見て、発想で勝負できる世界があるんじゃないかと思えたんです。
―そこから上京し、様々な挑戦をされて、今の千原さんになっていく訳ですね。最後に、千原さんからこれから何かを初めようとされている皆さまへのメッセージがあればぜひお願いいたします。
事務所の若いデザイナーたちを見ていても感じるのですが、みんなすごく焦っているなって思います。自分は将来何か成し遂げられるのかな、けれど特に好きなことがあるわけではないしなっていう不安がモヤっとある。SNSなんかで繋がっているものだから、余計に友達との差が見えて焦ってしまう。けれど、周りなんか意識しない方がいいと思います。やりたいことじゃないのに、無理して焦る気持ちで創ったりするだけになってしまうので。長い流れの気持ちで、今を楽しむということを大事にして欲しいです。
―ありがとうございます。今回は文量の関係で盛り上がった映画の話や上京後のエピソードなど詳細を書ききれませんでしたが、皆さんからリクエストいただければぜひスターウォーズのようにエピソードを追加していきたいと思いますので、その際は改めて千原さんどうぞよろしくお願いいたします。今回は、素敵な物語をシェアいただき、ありがとうございました。