今回はスプリント種目の世界大会で日本人初となるメダリストであり、引退後も多様な事業を手掛ける実業家として変化の歩みを続けられる為末大さんに、これまでの出会いと変化の物語をお聞きします。
ー本日はありがとうございます。今日は為末さんにとってのターニングポイントで、どんな出会いと変化を経験されてきたのかをお聞きしたいと思いますので、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ーまず、為末さんのプロフィールを拝見して思ったのは中学時代に日本一になられていますよね。なる前・なった後、どんな変化があったのでしょうか?
実は小学校時代からスピードは飛び抜けていて、中3の時点では7種目でトップになれそうだなというタイムを持っていたんですね。ただルール上、2個までしか参加できなかったのでその時の中学校の先生とどれを選択するか決めて、取ったという感じだったんです。
ーなんかもう乗っけから、私には想像できない世界なんですが。笑 では、突然訪れた出来事というよりは計算づくでとったという感じなんですね。
そうですね。記録的にはどれでも取れていたと思いますが、その中でも陸上の花といえば100m・200mだろうと思って選んだんです。それよりも今思うと、そのタイミングで先生がどの種目に参加するかの決定権を僕に委ねてくれたってことが大きいかもしれません。スポーツって指導者が目標設定して、選手はそこに向けてトレーニングするという構図が多いのですが、この時から自分で意思決定をし、指導者にはサポートしてもらうという環境があったのは僕にとっては良かったと思います。その後プロになってもコーチを付けなかったんですが、そういうこともここから始まっているかもしれません。
ーでは、そんな実績を中学3年で成し遂げた後、進路選択とかはどんな風にされたんですか?
その後は色んな大人が来てくれて嬉しかったですね。高校も全国の強豪校がうちに来ないかと勧誘に来てくれて。ただ、やっぱり地元を離れたくなかったので、高校も広島の高校に行きました。
ーその時の目標は?
もう小学校時代からオリンピックでした。中学校でのタイムがオリンピック記録とコンマ何秒差だったので、ずっとオリンピックは頭にありました。
ーオリンピックを目指すための環境として高校を選んだと思うんですが、良い環境が地元でもあったんですが?
うーん、今なら他の環境の良さも冷静に判断できていたんでしょうけど、その当時はやっぱり家を出たくなくて。あとは、この環境に行けば成長できるという観点ではなく、より自分が自由に伸びる環境はどこだろうという感覚なので、先に自分があって、環境は後押ししてくれる要素って捉えています。
ーでは、環境に求めることは自由なんですか?
そうですね。規律が少ないとか、自由にできるとか。厳しい練習は問題ないんですが、厳しい規律は嫌でした。今でもそうですけど、自由はとても大事にしていることですね。
ー高校時代はその後順調だったんでしょうか?
いや、実はここで大きな挫折があったんです。高校に入ってからは記録が伸びずで。高校3年生の時に新記録を出してインターハイ優勝するまでは辛い時期が長かったですね。
ー記録が伸びない辛さですか?
それもありましたが、周りの大人が離れていくっていう辛さも大きかったです。それまでは向こうからどんどん来てくれていたんですが、気付けば来なくなっていたことは、寂しい経験でした。
ー思春期の多感な時期で、その体験はかなり辛いですよね。どう乗り越えていったんですか?
陸上競技って自分と向き合う時間が長いスポーツなんです。色んな感情と向き合う中で、自分の感情や認識を客観的に眺める、いわゆるメタ的(高次的)に自分を捉える視点を持つことに繋がったかなと思います。そういう意味では高校時代は大きな転機でしたね。もちろん競技でも色んな試行錯誤があり、400m・400mハードルといった競技に行きつき、最後は良い結果を出すところに繋がっていきました。
ー既に高校生の時点で他の人があまり経験しないような密度の濃い経験を積まれてきたんですね。その後の大学進学・就職など多くの人にとっても転機となる時期においてはいかがでしたか?
勉強は好きじゃなかったので、いける大学は限られていたんですが。笑 その中でも一番自由なところに行きました。大学でもやはりしばらくは結果が出せなかったんですが、そんな結果が出ない時期に来てほしいと言ってくれる企業があったんです。そこに行きますとお返事してから世界選手権でのメダル獲得という結果が出たこともあり、実はプロになりませんかというお話しもいただいたんです。
ーたくさんの本をお書きになって、『走る哲学者』とも言われる為末さんが勉強嫌いだったとは意外ですね。就職するか、プロになるかは迷われましたか?
かなり悩みました。僕の大事にしている価値観である『恩を与えてくれた人には報いる』というものと、『新しいこと・刺激的なことに挑戦する』というものが初めてぶつかった時でした。ただ、その時はやはり筋を通そうという意思で就職をしました。
ーその後もやはりプロへの意識はあったんですが?
そうですね。海外の選手はプロの人が多いんですが、やはりそういう人たちと接すると切羽詰まった中でトレーニングし、生きているなというのが伝わってきて、自分はここにいていいのかなという迷いはありました。1年半経って結果が出なかったときに、プロになって自分を追い込もうと決意しました。
ープロになるということは、これまでのようにピュアに走ることだけに専念すればいい環境ではなくなるということではと思うのですが、どうでしょうか?
それはその通りですね。ただ、不安はなかったですし、やはり僕にはその方が向いているなと思いました。たとえば、プロになって始めたことでブログがあるんですけど、初めは知名度を上げるためにやりだしたんです。そういった挑戦も楽しかったです。勉強嫌いでしたが、国語だけは得意で本はずっと読んでいたこともあって。とにかく変わらない日々を過ごしていると、心が閉じてしまうので、新しいことに挑戦しないといけない状態というのは面白いですよね。
ー3度のオリンピックを経験されていますが、オリンピックはどうでしたか?
出ることもそうなんですが、それはずっと視野に入っていたこともあって、やはりメダルが獲りたかったです。もう20代後半は、本当にオリンピックのメダルしか追いかけていないような時期もありました。今思えば不思議な感覚なんですが、あの時は本当にそれしか見えていなかったですね。
ーその後引退されてからは起業や様々な事業を手掛けられていますが、どんな目標をお持ちなんでしょうか?
選手時代のような目標ではないかもしれません。自分がやってきた走ることと繋がりがありつつ、”何かを解放していく”・”自由にしていく”・”新しいこと”・”大より小”と感覚で選んでいるような気がします。一つ一つやる前にそんなことを考えていたわけではないんですが、振り返ってみるとそうなんだなとわかったという感覚です。
ー明確な目標を持ち、自分を追い込んできた選手時代と、色んな活動をやられてきた引退後の事業活動の両方があるので、感覚をバランス良くお持ちなんだなと感じました。最後に、これから何か新しいことに挑戦したい、変わりたいと思う人に向けて何かメッセージをいただけないでしょうか?
人に語れるような人生の大きな目的って、相当運が良くないと見つからないと思うんです。だから、なんとなく心地よい人生っていうのも決して否定的に捉えなくていいと思うんです。人生に一貫性がなければとか、こうでなければならないっていう想いって、自分が自分に対して認識を押し付けているとも言えるんですよ。アスリートのセカンドキャリアも同じで、現役時代と同じ目標を求めてしまうと失敗することって多くて。それはやはり自分への認識を変えられないからなんでしょうね。もっと自由に、今までの自分の認識なんか意識せずに、色んなことに挑戦されると良いのではと思います。
―今回は貴重なお話しありがとうございました。これからも自由な発想と行動力で、新たなことを生み出されていく為末さんのご活動を楽しみにしております。
写真:©Kensaku Seki